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Dog photography and Essay

Dog photography and Essay

江蘇省--南京旅情4


 
「南京旅情46」

「中国写真ライフ」では、
江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。

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中山陵へ着いたのが午後4時頃で
その事もあってか人出は少ない。

以前来た時は午前中という事もあり
また秋の行楽日和だった事もあり
コンクリートが見えないほどだった。

午後5時で閉門になるために
私たちは先を急ぎ歩いて行った。

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中山陵は孫中山(孫文)の陵墓であり
清朝を滅ぼし中華民国を建てた孫文に
まつわる言葉が掲げられている。

孫文の祭堂を上がっていく石段の前に
門が建てられており上には天下為公の
文字が彫られ掲げられていた。

天下為公は古典「礼記」の一節で
天下は権力者の私物ではなく公(民衆)の
為のものであるという意味である。

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政治的判断を下す上で政治家が
念頭に置いている言葉でもあり
為政者の政治理念を説く言葉の
「天下為公」に由来するものである。

日本でも同じことが言えると思う。
最近の政治では「公」が持つ意味が
不確かなものになているような・・。

政治に携わる人々は、常に念頭に置き
行動して行ってほしいものである。

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「南京旅情47」

「中国写真ライフ」では、
江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。

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中山陵の石段を上って行くと
孫文の国民党葬が行われた事を
記す碑が造られていた。

中華民国18年6月1日と記されており
中華民国元年は1912年であるので
中華民国18年は西暦では1929年である。

中山陵造成には3年の歳月を要した。
完成した年に国民党葬が行われた。

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孫文の碑堂を抜けると何段もの石段を
上らなくてはならないが、その先に
孫文の祭堂があり、奥に墓室がある。
  
陵墓は1926年1月に起工し1929年の
春に完成した。敷地内には広場や墓道
陵門、碑亭、祭堂、墓室などがある。

敷地は鐘の形で鐘の頂上にあたる部分は
半月形の広場になっている。

広場の南端には孫文の銅像が建っている。

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「南京旅情48」

「中国写真ライフ」では、
江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。

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中山陵の石坊前の広場の南端に
孫文像が立っており石坊の後側に
長く広い墓道が続いている。

墓道を上がった所に祭堂に
入る門があり、祭堂の南側の
アーチ型の3つの門がある。

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門の上には民族、民権、民生の
文字が記されており「民生」門の
上には孫文の直筆の「天地正気」の
額が掛かっている。

石段を上るのに段々足がだるくなり
休み休み上ったが、何段あるかなど
脳裏から消え去り大学生に任せた。

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「南京旅情49」

「中国写真ライフ」では、
江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。

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中山陵の石段を登りつめた所に
孫文の直筆の「天地正気」の額が
掛かっている門が見えてくる。

「天地正気」とは天地の中に
正気があるが流動的なもので
この正気は地上では河や山となり
人に乗り移つると高揚として
士気があがり胸中一杯となる。

「正気」は天地宇宙の根源となる
エネルギーであると考えられる。

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「孫子・軍学」に正々堂々との
言葉がある。「正正の旗」を
討つなかれ、「堂堂の陣」を
討つなかれと教えた正々堂々である。

整然とした軍隊や士気が
上がり進軍して来る軍隊には
迎え撃つなとの意味である。

孫子は、戦う将兵の士気が
上がっている敵には決して
迎え撃つなと教えている。

下の写真は祭堂の前から中山陵の
牌坊を遠く望んだがココまでで
392段だが降りる時に再度確認した。

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「南京旅情50」

「中国写真ライフ」では、
江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。

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中山陵の孫文の祭堂に入った。
祭堂の中央に大理石製の
孫文坐像が置かれている。

写真では祭堂の暗さに露出が合い
孫文像が白トビを起こしている。

堂内の壁は黒の大理石に孫文直筆の
「建国大綱」の文字が刻まれている。

内部は墓室になっており大理石の
孫文の寝姿の下の棺に孫文の
遺体が安置されている。

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中国革命の父と呼ばれた孫文の
中国名は「孫中山」と呼ばれる。

中華民国では国家の父と呼ばれ
中国でも近代革命の先人として
国父と呼ばれている。

中国では尊敬の念をこめて
「孫中山先生」と呼ばれている。

中国広東省広州にある大学で
中山大学や台湾の中山大学は
孫中山の名前から付けられた。

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「南京旅情51」

「中国写真ライフ」では、
江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。

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2009年2月の人民日報上で孫文に
日本国籍の妻がいたと記事を掲載。

孫文の妻は盧慕貞、宋慶齢、陳粹芬
の3人とされてきたが、大月薫名の
日本国籍妻がいたと公表した。

横浜で大月薫と出会った孫文は
美しさに心を奪われ求婚した。

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孫文36歳、大月薫14歳と22歳離れ
親から断られた為1年後、直接求婚。
2人は横浜市内で結婚式を挙げた。

1906年2人の間に娘が生まれたが
娘を見ないまま孫文は中国に帰国し
その後、日本に戻ることはなかった。
娘は生まれてまもなく養女に出された。

1925年、革命未だ成らずの言葉を残して
北京で永眠。孫文の棺の天井には
国民党の党章のシンボルマークがある。

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「南京旅情52」

「中国写真ライフ」では、
江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。

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大月薫は再婚したが、孫文からの連絡を
生涯待ち続け1970年没、享年82歳だった。

大月薫の娘の名は冨美子と呼び、
冨美は孫文の文の訓読みから付けた。

孫文は医師として世に出るが革命思想を
抱くようになり革命に敗れては、しばしば
日本に亡命したが、1911年に辛亥革命後
1912年に中華民国を建国する。

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革命に失敗しては海外や日本へ逃亡。
乾ききった孫文の心に少女の薫は
安らぎを与えたに違いないだろう。

大月薫の家は一般の家庭で、後の
妻である宋慶齢の実家のように大財閥で
孫文の革命に資金を捻出出来なかった。

ゆえに大月薫は歴史の中に埋もれ
2009年2月まで世に知られなったのかも。

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「南京旅情53」

「中国写真ライフ」では、
江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。

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孫文は盧慕貞と夫婦であったが革命に失敗
日本へ亡命し1903年から3年間大月薫と
結婚していた。盧慕貞とは1915年までの
30年間夫婦だったが離婚し宋慶齢と結婚。

孫文と大月薫の結婚は束の間の事だった。

孫文の子供を宿した薫は自分ひとりで
冨美子を出産した。孫文は子供を
抱く事もなく革命のために帰国した。
その後孫文とは連絡が途絶えてしまった。

冨美子は乳児のまま横浜の商家の宮川家に
養子として出されたが、大月薫の親は薫を
不憫に思い他家へ嫁に出すことにした。

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歳月は過ぎ冨美子は多摩から宮川家に
婿養子として迎えた吉次と結婚し
長男に宮川東一を授かる事となる。

宮川冨美子には生みの親が一体誰なのか
危険な情勢下のため知らせなかった。

冨美子が薫と別れ初めて会ったのは
栃木県の寺で実に48年後の事だった。

冨美子の長男の宮川東一もこの時
初めて自分が孫文の孫と知る事となる。

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「南京旅情54」

「中国写真ライフ」では、
江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。

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孫文と15歳で結婚した大月薫は
冨美子を生むが養子に出した。

冨美子は養子先の宮川家で更に
婿養子を取り長男東一を生む。

大月薫が外孫の宮川東一と栃木の
寺で会う事になったのは冨美子の
計らいでもあり薫62歳の時だった。

孫文の事を知る宮川東一だったが、
初めて聞く孫文の事に戸惑うと共に
孫文の知識に疎いため漠然としていた。

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孫文と中華民国の歴史を紐解くと
1911年の辛亥革命の後1912年元日
南京を首都とし中華民国を建国する。

孫文は自らの軍事力を確保するため
ソビエトからの支援を求めた。

孫文の弟子だった蒋介石は1923年
孫文の指示によりソ連の軍制を視察。

孫文のもう一人の弟子の毛沢東は
1921年7月上海で行われた第1回
中国共産党大会に出席した。

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孫文は1925年3月闘い半ばにして
北京で死去し亡骸は南京中山陵へ。

国民党の後を継ぐ事になったのは
蒋介石であり中山陵造成も指揮をする。

1945年日本敗戦後、中華民国が台湾を
編入し実質上中華民国の領土となる。

蒋介石の国民党と毛沢東の共産党との
内戦が続いたが1949年10月1日に
共産党に敗れた蒋介石は台湾へ失脚。
台湾は中国から離脱し中華民国となる。

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「南京旅情55」

「中国写真ライフ」では、
江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。

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孫文の陵墓である中山陵の観光を
北京の大学生と共に観て回った。

大学生はツアーに合流するために
中山陵からバスで南京駅へ向かった。

私は別れた後、バスで夫子廟近くの
ホテルまで帰って来たが、秦淮河の
夜景を撮影するため途中で降り
ホテルまで歩いて帰ることにした。

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秦淮河の灯船は秦淮河の有名な景色で
船はイルミネーションで飾られている。

流れ行く灯船には観光客の話し声の他
音楽や歌なども聞こえて来たいた。

鎮淮橋一帯の秦淮河にある船と楼閣では
毎年旧正月初日から30日までの1ヶ月間
秦淮河の夫子廟一帯で金陵灯会を行う。

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夫子廟は南京市内の秦淮河北岸の
貢院街に位置ししている。

孔子を祭っている場所であるが
一般的には李香君故居、江南貢院や
王導謝安紀念館など秦淮河周辺から
建康路周辺の地域を夫子廟と呼ぶ。

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夫子廟は南京の有数な歓楽街でもあり
夜遅くまで賑わっている。

夫子廟近くの広場では多くの若者が集まり
ダンスのレッスンをしていた。

夜9時頃にもなると冷え込んできたが
彼らはリズムに合わせ踊っていた。

翌日は中国国民党と共産党との内戦の
記念の雨花台へ行くためホテルへ帰った。

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「南京旅情56」

「中国写真ライフ」では、
江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。

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南京市内路線バスを乗り継ぎ
雨花台へ向かったがタクシーなら
20分ほどの道のりを1時間掛けて来た。

雨花台は南京の南部の丘にあり歴史を
紐解けば紀元前5世紀まで遡る。

春秋時代に浙江省の辺りにあった国の
越王勾践が雨花台辺りに築城した。

雨花台の公園内には古代の史跡もある。
雨花台の名は、南北朝の時代に僧侶の
感動的な法話を聞いた神が花を雨のように
降らせたという伝説に由来するようだ。  

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雨花台の公園内へ入ったものの予定の
入場ゲートから入らなかったので
ガイドブックの道順とは違ってしまった。

雨花台の広さは150万平方メートルと
かなりな広さの公園で、どうやら私は
予定していた雨花台入口ゲートとは
相当離れているようだった。

だが、ここも雨花台の入口ゲートには
違いないので観光客の少ないゲートを
通り抜け中へと入って行った。

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「南京旅情57」

「中国写真ライフ」では、
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雨花台は南京南駅の近くに位置する。
中華民国時代の革命烈士の処刑場であり
多くの革命家たちが処刑された。

予定の行動では、雨花台の入口ゲートを
潜ると革命烈士群像が見えてくる筈だった。

写真でも分かるとおり生態密林区の中へ
入って来たが何となく迷い込んだ感じがした。

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雨花台は国家AAAA級風景区に認定されるが
表側入口ゲートを入った所の建物を総して
4A級風景区に指定されているのではと思った。

つまり予定していた雨花台革命烈士紀念碑や
烈士群彫、革命烈士紀念館などを認定している。

私が南京路線バスに乗って来たが、遊2の
バスに乗れば、正門入口に来れた。

だが、観光客が歩いていない遊歩道を
一人だけで歩くのもまた風情があると思った。

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「南京旅情58」

「中国写真ライフ」では、
江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。

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雨花台と書いて「うかだい」と読み
雨花石と書いて「うかせき」と読む。

だが、日本語読みの場合はそうだが
中国語では雨花台をユーフアータイと読み
雨花石をユーファースーと読む。

日本の25倍の広さがある中国の中でも
南京の雨花台一帯でしか採れないという。

雨花石の名前の由来は雨花台で採れたので
雨花石と呼ばれるようになったとか。

雨花石は330万年前の火山活動で瑪瑙に
微元素が入り込み長い年数を掛け、
写真のような模様が生まれた。

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雨花石の表面は光沢があり、人工的に
色を塗りニスをふき付けたようである。

半透明のガラス細工にも見える石だが
余りにもカラフルな感じの雨花石は偽者の
ガラス細工であるので注意が必要である。

雨花石を採り研磨する前の石を見て
感じたことだが、磨く前は石がくすんでいるが
水に浸して見ると、その美しさが出てくるようだ。

だから売られている雨花石のほとんどが
水を一杯にした容器の中に入れられている。

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「南京旅情59」

「中国写真ライフ」では、
江蘇省「南京市内」の写真を公開しています。

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雨花石文化区と彫られた石碑の前に来た。

中国人のツアーバスで参加する人たちは
雨花台の正面ゲートより入る。

私は、一人の行動で勝手に市バスに乗り
着いてみれば雨花台でも全く反対側の
ゲート付近で降りてしまった。

入るときに以前来た雰囲気と相当違うので
不思議にも思ったが、一般観光客は
このゲートからは入らなかった。

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また現在私が立っている雨花石文化区は
時間のある人が、立ち寄るところだと
後になってから聞いたが笑うしかなかった。

一人旅で時間に制限があるわけでもなく
のんびりと雨花台の中を見ることができた。

上の写真の岩に彫られた「天降花雨」の文字は
文字通り、天から花の雨が降って来た伝説を
岩に文字で彫り表したものである。

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「南京旅情60」

「中国写真ライフ」では、
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中国へ来た当事の1994年の事であるが
南京の事はほとんど知らなかった。

と、いうのも南京大虐殺のことで
中国の人から攻められる事がよくあった。

私にとって南京大虐殺の知識は
それほど多くはなく返答に困った。

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本来なら雨花台の画像のページで
南京大虐殺の話を持ち出すべきではない。

それは分かっていてもモニュメントを
目の前にし、どうしても結びつけてしまう。

南京大虐殺30万人とは中国共産党と
アメリカ政府が原爆投下を正当化するため
でっち上げたものだと論議されている。

だが、そんな事を中国人に弁解しても
どうなるものではなかった。

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